「東日本大震災」カテゴリーアーカイブ

「第3回支援物資お届け」(タイトル仮)のご報告

 ろくに告知も致しませんで大変失礼いたしましたが、6/11(土)に石巻を訪れ、お預かりした支援物資をほぼ全てお渡ししてきたことをご報告いたします。

 今回、支援や応援の気持ちを形にしたくてお待ち頂いてた方、すみませんでした。

 以前から、約束しておりましたアーティストさん「Chie Kajiura」さんが集められたを支援物資を優先させて頂いたのと、友人の引越で、処分する物の中から必要そうな物を多数選ばせて頂いたため、すでに車がいっぱいになると判断致しました。
 これから、また、どのような形で被災地の支援や応援をできるかは、まだ一考中ですが、必ずやまた伺うつもりなので、よろしければその時また、よろしくお願い申し上げます。。。

 ご報告についてですが、前回、前々回同様の方法を取らせて頂いております。

文中↓↓↓↓↓↓↓↓から↑↑↑↑↑↑↑↑の部分に、主観による、感じたことやエピソードを含めております。
 ジャーナリストでもない私のつたない文章であり、中にはショッキングな内容が含まれてる可能性もあります。報告のみ知りたい方や、精神的に今はつらい方は、この矢印に囲まれた部分をとばしてお読みいただけます様よろしくお願いします。
 文中にいろいろな表現が出ることもあるでしょうが、事実を羅列するだけでつらい表現になり、思いを強制するとか、批判するものではありません。「皆様の愛への尊敬と感謝の気持ちでいっぱい」であるのが真実です。
 そして、ここで書ききれないこともたくさんたくさんあり、お伝えしたいとも思っておりますので、お気軽にお声をかけてください。

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第3回 石巻

目的 :
1. 石巻市の物資入手困難な地域への、支援物資のお届け。
2. ボランティア希望の友人2人を、石巻のボランティアセンターへ送迎。
3. 石巻市役所で、高速道路の通行証の申請。
4. 石巻で、復興活動、非公式ボランティアも続けていて、第1回でお世話になった熊倉さん、毛利さんにお逢いし、近況を伺う。
5. 現地で物資の受け入れ具合や、情報入手次第では、女川や石巻北東部や牡鹿半島(雄勝や寄磯)に足を伸ばして支援物資を配る。

4/20
 Chie Kajiuraさんからのメール連絡により、5月21日のライブの物販の売り上げ全てと、余った物販を支援物資として、被災地にお届けしたいというお話を伺う。

4/22~4/23
 第1回 石巻へ(末松一人氏、赤間慎)

4/30 
 4/20のお話の決定。

5/3
 第1.5回 いわき市へ(久ノ浜で全壊、30km圏内により避難を余儀なくされてる友人の所へ友人達と共に)

5/8
 第2回 亘理町へ(まあさ、ぺんぺん画、achikoちゃん、赤間慎)

5/16
 mtg. 具体的なお話を詰めました。物資を配布する目線からの現地の状況をお伝えし、積載量や必要物資、希望の配布場所等を、話し合いました。同時にこちらで、子供たちの為に、chieさんがされてる活動や、想いも伺いました。

5/21
 LIVE.Chie Kajiura 「LABORATORY #05」@渋谷Star lounge

5/26
 物資調達の買い物

~6/10
 通販や、八百屋で物資を調達されたそうです。

6/10
 積み込み : chieさん邸前 
ドローイングアーティストのぺんぺん画、エアリアルアーティスト&ダンサーで5/21のライブのカメラマンでもある渡邊純子ブログにアップされてますね。
http://ameblo.jp/algiid-jun/entry-10923870128.html 


↑こんな風に、母さん夜なべ系作業によりかわいく小分けされてます。


↑当日には、果物が。。。これは大喜びでしょうね♪♪


↑「teamCK」と、物資の内容が事細かに、全てのハコに張ってあります。
「teamCK」とは、chieさんと同志の方々(5/21のライブで物販購入により支援された方々)のことです。
 この量を一人で、仕分けしたり…だったわけです。ドリンク等も多いし、赤間でも重いと思うハコも結構あって…、chieさん腰を痛め気味だった様子です。。。 ホントお疲れ様です。。。


↑渡邊純子さん、Chie Kajiuraさん、撮影はぺんぺん画です。


↑友人引越引き取りの荷物もあって、やっぱりぎりぎり、リヤは超シャコタンです。


↑そして、今回はここに一人埋まります。

夜は、日吉で旧友が営むcafeSANTAへ。
売り上げの数%を義援金として集めていたそうです。その一部をお預かりし、


↑ミートソースがベースのオリジナルのキーマカレーや、こだわりの超うまコーヒーを頂きます。


↑茶やハーブティ、調味料なんかが、母さん夜なべ系作業により大量に小分けされてます。

出発までに、最終物資調整。
ガスボンベと、殺虫剤を大量に買い込みました。

6/11 未明は強雨 雨のち快晴
 未明に出発。 石巻までの道のりは、福島県に入った辺りからの道のゆがみ具合、補修具合は、変わらずでした。石巻手前でやはり渋滞はしますが、第一回の時よりだいぶ渋滞区間は短かったです。

09:00  石巻専修大 社協のボランティアセンター
10:45  だいぶ待たされ、ボランティア希望の友人2人をやっと見送りました。 派遣先は湊町の七十七銀行付近です。

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 今後の為に、多少時間がかかってでもボランティアの流れを見学して参りました。

新規受付にて書類に記入。

同じテント下でボランティア保険加入

リーダー(腕章をつけた人と教わった)が、マッチング(仕事に対して車両、人材を当てはめる作業)を開始するのを待つ。

その時点で仕事が決まれば、リーダーの指示に従い、資材、道具を受け取りに倉庫へ
決まらなければ、また待つ感じなります。

リーダーを中心に現地へ出発

この流れは、ずっとボランティアをされてる方のブログなんかが、実際参考になると思われます。
…が、、、雨ということもあってなのか、待たされる時間や、伝達の曖昧さにより、効率がよくないように、私は感じました。やる気満々の猛者たちが、たくさん長い時間待たされてました。


↑新規受付テントの前でやる気満々の、高校からの親友、伊東真哉くんと山本かおりさん。

ただ、ここまでなんてことのない景色だったため、湊町(浸水4m)に直接足を踏み入れるとなると、もの凄いショックを受けるだろうことに、心がすぐれませんでした。。。
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11:00  石巻市役所 産業戦略課
12:00  高速道路の通行証明書は、入手できませんでした。


↑石森章太郎さんゆかりの地であり、そこかしこでキャラクターたちが見守っています。

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ひとしきりお願いした後、
「そういうのは運動公園の集積所でなんとかしてくれると思いますよ」
  「あそこは個人の物資は受け入れてくれないですよね??」
「はい。。。」
  「つまり… どうあがいても無理ってことですか?」
「はい…うちの方では。。。」

あらら。。。そもそも、お役所からは嫌がられることやってるんですからしょうがないですね。。。6/20から千円高速なくなるのも急な話しで、今まで調べてきた災害派遣従事車両関係の書類の呼び名なんかも急に変わったから、もしかして、ここ数日で急に厳しくなった可能性も否めないよね。。。
 ボランティアは、テント泊の方が多くて、テント持ってない人は車中泊してます。東京からのボランティア用送迎バスは、一人往復1万円くらいかかるとも聞きました。車なら、2人で元がとれます。もう少しわかりやすく説明していただかないと、車両を持ち込んでのボランティアさんが、減ってしまうよなぁ。。。本当にがっかりして、しばらく車でうなだれました。。。
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12:15  湊町七十七銀行付近の仮設セブンイレブンで昼食

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 女川街道沿い…、国道であるにも関わらず、未だ信号は動いてなくて、日中は各交差点で警察が手旗信号をしてます。セブンイレブンは店舗はほぼ災害当時のままの様で、抜けたガラスや壁にはベニヤが貼ってあります。駐車場で、トラック2台とテントでの仮設営業でした。昼食は買ってあったのですが、あえてこちらでおにぎりを買って食べました。

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13:00  駄菓子のダンボールが軽くて大きく、一番上に積んであった為、先に配布しようと、湊小学校、石巻中学校、湊中学校(いずれも避難所です)を回って、子供用物資の配布許可を求めましたが、お昼時というのもあり、いずれの避難所も自衛隊に管理されていて、断られました。

13:30  ゲリラ的に路地で物資配布をしました。第一回の時も、同様に配布した地域の近辺です。大門町2丁目→湊町4丁目→湊町3丁目→湊町2丁目 少しづつ移動しながら、くじ付きおもちゃ、小分け駄菓子を除き、物資のほとんどを配り終えました。うち、2箇所では、近所の方がまな板と包丁を持ってきて、みなさんにわけてくださり、みなさまの穏やかな笑顔を拝見することができました。
 方法としては、物資のリストを見せて、選んで頂こうと思っていたのですが、ご近所の方も呼んでくださったりで、想像以上に人が増えていて活用できたのは、最初の一人だけでした。
 浸水は4m ライフラインは、電気とガスは家によってまちまちで、水道からは赤い水が流れてくるそうです。


↑写真を撮らせて頂くのも、多大な勇気がいるのですが、報告のための撮影、掲載の許可をお願いしましたら、笑顔をくださった方もいらっしゃいました。


↑写真には写ってませんが、作業の合間のすいかを楽しむ男性も多かったです。子供たちにもおもちゃとお菓子配りましたが、避難所の子達と違い、すぐに走り去ってしまいます。。。

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 この地域、第一回で来た時には、人はまばらだったのですが、とてもたくさんの方が戻ってらしたようです。ご近所に他に人がいるのかを伺ったら、みなさまに声をかけてくださり、とても一人じゃ対応しきれないほどの方々にお集まり頂きました。第一回の頃ですら、市はライフラインは戻ったと発表していましたが、実際は今でも、各家庭での器具や工事が間に合ってなくて、ガスや電気が来ている家もまちまちなのです。ガスがこないからって、プロパンに切り替えて工事をしてやっと昨日お風呂に入れたという方もおられました。水道は赤い水が出るので呑めたものではありません。
 2階族という俗語も生まれてるようですが、そもそも震災直後のインタビューで、「避難所はこれから全壊の方たちがまだまだたくさん来るから、2階が残ってる私たちは避難所を空けるために戻らないと…」って言いながら、荷物を頭の上に、腰まで水に浸かりながら未だ浸水してるおうちに戻る姿が印象的でした。
 半壊の方々、ライフライン分断の状態でもう3ヶ月も自給自足の中での復興活動ですから、未だ大変な日々を送ってるのです。もちろん皆さん車は流されてますし、歩いていける距離には、お店は全くありませんから、あの仮設セブンイレブンはひとつ、大きな希望なんでしょうね。。。
 なんにしろ今回の荷物、全ての物が、ここでは必要とされている物でした。これだけの人がここにいるのなら、物資はいくらあっても困らないでしょうね。物資募集を打ち切っている場合ではない。。。余ってるなら早く配って欲しい。とりあえず死にはしない程度では、家の片付けですらはかどらないだろうから。。。
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15:15  元倉1丁目(浸水2m)の熊倉さん宅を訪ね、近況を伺ってきました。毛利さんも来てくださいました。

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 第一回の時に、多大にお世話になった方々です。顔をみた瞬間、涙が溢れました。なんだか、号泣していた末松君の気持ちが少しでもわかったような気がします。床下の泥かきがやっと終わったそうです。


↑石巻のドン的な熊倉さんと、いつもおしゃれな毛利さん

 熊倉さんとお話していると、いつも自分のことよりも石巻!という感じが見えます。「ありがとう石巻に…」「石巻を… 」 って言葉を聴くたび、この街への愛が感じられます。仲間は家族みたいに考えてらっしゃる感じで、連絡や行動がものすごく早くて、たくさんの方々の信頼を得られてる方です。
 毛利さんは、画像のトラックにある「エンヤコーラ!」活動を提唱し、地域復興を活性化してらっしゃいます。エンヤコーラ活動とは…「それはそれは、みんながhappyになるものです。目に見えたり、見えなかったり、聞こえたり、聞こえなかったり、伝わったり、伝わらなかったり・・・でも、その先はみんなにhappyが待っている。おまけで私にも(笑)。」だそうです。私は毛利さんに、物の見方や感じ方、捕らえ方が似ていて、もの凄く感性が近いのかな…と感じる日々です。。。
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16:00  湊町七十七銀行付近で、ボランティア2人をピックアップ。
ボラセンに戻らず、現地解散をさせてもらえる場合もあるようです。

16:30  日和山公園にて、景色を見て、駐車場にて、くじ引きの仕込み。

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↑くじの型紙に番号全部書いてあるから、いい景品は絶対お店の人に抜かれてたよね…なんて会話をしながらの仕込みです。

 日より山公園から見ると、瓦礫が海岸沿いに移動しただけなのがよくわかります。もちろん、大きな進歩なのですが、3ヶ月という中で考えると、正直がっくりきます。熊倉さんとお会いして、思わず「だいぶすっきりしましたね」と伝えましたが、瓦礫がなくなったことで、被害があらわになり、何も進んでないように見えたり、被害の大きさを改めて思い知らされたりするのです。確実に進んでるのですが、もう3ヶ月です。この3ヶ月をどのような思いで過ごされたのか。。。こんなにも手が回らないのか…。被害が及んだ広さと大きさを思い知らされます。
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17:00  湊町の方々に子供が集まる場所を聞くと、19時からとある避難所にて合同慰霊祭があるということだったので、先ほど自衛隊に断られたがもう一度行くも、ほとんど子供はおらず、別の避難所に移動。半ば、こそこそリーダーにお話して、こっそり子供たちのいる場所を周りました。

18:30  もう一度湊小学校に戻ると、自衛隊もいなかったが、子供も少なかったです。

19:30  活動を終了 
若干のくじ引きおもちゃを残すことになってしまいましたが、現地で食事をし、ゆっくりと帰途につきました。
 このくじ引きおもちゃにかんしましては、残りのものをうまいことまとめ、次回にまた持って行きたいと思っております。

以上、報告を終わります。

 大変長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
予想の1/10くらいの短い時間で物資はなくなりましたが、全て、必要な物が必要とする方のもとへ渡ったという実感はございます。子供を含めると総勢8~90人くらいでしょうか、、、しっかり手渡しをすることができました。
 また、このように物資があることにより、私も活動に参加ができたこと、大変ありがとうございました。

次回以降のことは未定ですが、また機会を作ることができましたら、よろしくお願いします。

あかましん

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・ 避難所は、だいぶ人数も減ってました。
・ 石巻は水産加工工場が多いので、においの問題も大きいですが、相変わらずでした。片付けは進んでるはずなのですが、暖かくなってきてヘドロもにおうようになり、むしろ、ひどくなってる感じもします。
・ 石巻駅前の商店街は、今もほとんどのお店が閉まったままです。というか、シャッターすら閉められないお店も多いです。
・ ハエがとてもとても多かったです。これからもっと増えてしまうでしょうね。。。

 3ヶ月… すぐに何不自由なく暮らせるようになったこちらと、不自由なまま3ヶ月、文字通りぎりぎりで生きて来られた方々…、両者のギャップは、このままどんどん開いて行くのだろうか。。。なぜ、差が埋まらなかったのだろうか。。。 あ、ごめんなさい。被災地から戻ると必ず、現実のギャップに大変苦しみます。 実は怒りや訴えたいことばかりになったりもするのです。しかし、それは、このブログをを読んでくれる方に対してではないのです。これを読んでくださってる方々は、どこか共感しあってこそ、参加してくださってるんですから。。。
 この矢印の間のコメントを読んでくださった方は、いやな思いをすることもあるでしょうね。しかし、本当に感謝の気持ちでいっぱいなのをおわかり頂きたいのです。どこかで赤間が吠えてても、みなさん本当にありがとうございます…なのです。
 こうして、心はまた被災地に。。。
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「第2回支援物資お届け」(タイトル仮)のご報告

  第1回に引き続き、5月3日に第1.5回、個人的な友人のいわき市、5月8日に第2回として亘理に行って参りました。
 そして、第2回でも、スムーズな支援物資のご配送手配や、お持ちいただいたりと、ご協力本当にありがとうございました。皆様の想いの形を、全てお届けしてきたことをご報告いたします。

 初回からそうですが、激しいギャップの中、自分の現実がどちらにあるのかわからなくなります。被災地にいると、目に入る凄まじい世界は、現実に目の中に飛び込んでくるのですが、おそらく脳は全てが嘘や夢のように処理をしているのでしょう。こちらに帰ってくると、当たり前過ぎる自分の日常が信じられなくなります。自分の真実は被災地にある…というように感じるのです。僕の周りの、ボランティアに行ってる皆さんが、ずっと、行きっぱなしになってしまう人が多いのは、こんな理由も含んでるのだな…と、感じたりします。もちろん主観ですが。。。

 というわけで、やっぱりうまく伝えることができないので、前回と同じ方法で報告させて頂くことにします。文中↓↓↓↓↓↓↓↓から↑↑↑↑↑↑↑↑の部分に、主観による、感じたことやエピソードを含めております。
 ジャーナリストでもない私のつたない文章であり、中にはショッキングな内容が含まれてる可能性もあります。報告のみ知りたい方や、精神的に今はつらい方は、この矢印に囲まれた部分をとばしてお読みいただけます様よろしくお願いします。
 文中にいろいろな表現が出ることもあるでしょうが、事実を羅列するだけでつらい表現になり、思いを強制するとか、批判するものではありません。「皆様の愛への尊敬と感謝の気持ちでいっぱい」であるのが真実です。
 そして、ここで書ききれないこともたくさんたくさんあり、お伝えしたいとも思っておりますので、お気軽にお声をかけてください。

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第1.5回いわき市
5/3 いわき市の久ノ浜で、家を流された友人に、ごく親しい友人たちのみで私的に物資を届けて参りました。 3/11の夜から、避難区域の拡大に翻弄され、一晩ごとに避難所を移動した方で、だんな様は自衛官。たくさんのお話を聞き、建物損壊具合による問題点や、背景等の一部を理解することができました。

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第2回亘理町

目的 :
1. 第1回で亘理に向かったachikoちゃんのお知り合いである民生委員さんより頂いた情報に基づき、支援物資の収集及びお届け。
2. 上記の民生委員の方からの以来を受けたパントマイミストまあさのパフォーマンス。
3. 第1回から宮城へ滞在していたachikoちゃんを迎えに行く。
4. その他、未定ですが、他の地域も行くかもしれない。

4/29 物資募集開始
~5/7 またまた、たくさんの物資が届けられました。義援金としてお預かりした分での物資の買い物も…。

19時までにお届けしていただいた物資たちを、最終仕分けし(赤間は、また仕分けには参加できませんでしたが、、、)、赤間が到着で、積み込み開始です。


まとめられた荷物を見て、今回はゆとりがあるな…と、思っていたらまた、ギリギリいっぱい。


そして、またここに、一人埋まります。

 こんなにも物資がぎゅうぎゅうになると、なんとも言えない気持ちになります。
なにせ、皆様の愛のかたまりですから。。。
 感動と同時に、もの凄い責任感が生まれます。

5/8 晴れ お昼近くに激しい雷雨

未明に出発 まあさ 、ぺんぺん画、赤間慎

8時半過ぎに、achikoちゃんとお母様と弟さんと合流し、物資配布会場になる高音寺へ。

 今回は、achikoちゃん一家とお友達の民生委員、高橋勉さん「べんちゃん」に、一日お世話になりました。このお寺では、定期的に物資配布会を開催しているのですが、なにか、公というよりは、物資の至急されない、または、配布所までとりに行けない方たちのために、民生委員の方々が自主活動のように立ち上がって行ってるのだそうです。役所の方々と、現場(前述の民生委員の方々)での現状認識のギャップが激しく、半ばいつも戦ってらっしゃるようです。
 お寺の駐車場が会場になってますが、民生委員である住職により、駐車場(配布会場)と、屋根付きのガレージ(支援物資置き場)が提供されてるのです。

9:00 支援物資を受け渡し。
次に行く、避難所(小学校)で配布する為にわけたおかしと文具、を残してお渡ししました。

 この間に、まあさがパフォーマンスしました。

10:00 支援物資の配布会スタート

お昼頃、雷雨により、早めの終了を余儀なくされました。


このガレージに、物資を卸し、民生委員の方々で、再仕分けされます。


このテントの右側に新品衣服や書籍、文具用プレハブがあり、その右側(屋外)には、中古の衣服コーナーが広がります。


とーほぐべん、大好きです。


みなさん、最初はかたかったものの、徐々にまあさのパフォーマンスでリラックスしてたご様子です。


支援物資を寄付した人に配ってらっしゃいます。

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 上記のはがき、「何人からの寄付ですか?」と聞かれ、「ものすごくたくさんの人からです」と答え、とりあえず、数枚だけ頂、写真でお伝えする判断をしました。現物はMONKEYDASHにございます。

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 「べんちゃん」「べん
ちゃん」…って、ひっきりなしにいろんな人からご挨拶され、屈託のない笑顔で相手を気遣ってる。。。 なんか、誰もが会ったことがあると感じるような、熱くて厚くて人のいいおっちゃんです。白髪にキャップをかぶり、着ているトレーナーと、ズボンをつまみながら、「これも、支援していただいたやつだよ」って、笑顔で話してくれる。。。
 そんなべんちゃん、もちろん被災者です。この辺りは、仙台東部道路から続く常磐道盛り土の上を走っており、東部道路同様に第二の堤防のようになって、この道より東側が津波の被害が大きい地域、荒浜地区です。この地域では、電気、ガスがまだの所も多いようで、1階はたいてい使い物にならなくなってるそうです。。。べんちゃんも、この地域の方です。

 ライフラインの復旧の情報(各市町村の役場等の発表)と、現実に格差がある理由のひとつがわかりました。石巻の状況も総じてわかったことですが、公共の地域のライフラインが復旧しても、そこから各家庭へのラインの復旧工事の人手と機器が間に合ってないのです。例えば、ガスですが、ガスコンロが復旧してから、お風呂に入れるまで1週間近くの差があったようです。浸水すれば、お風呂の給湯器も壊れます。その給湯器の交換工事が全然間に合ってないのです。電気も同様に、すぐそばまで電気が来てても、家までが繋がってなければ電気は来ないわけです。そして、役所では、ほぼ復旧したと、発表してしまうわけです。 その情報の誤差が数週間~1ヶ月に及んでる所も少なくありません。まだまだなのですね。。。

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 ここでは、民生委員の方々が、しっかり仕切っていて、20名くらいの方々が15分くらいづつ、各種類一人一つまでで、一方通行、後戻りはなし…と、いうルールの下、みなさん物資を選んでました。たくさんの民生委員の方が、しっかり物資を見ていて、物が少なくなると、まめに倉庫となるガレージからどんどん補充してました。ガレージの物資も全て管理、把握してるので、その都度何がどのくらい必要かわかるようなシステムです。7月くらいまでは続けたいとおっしゃってました。
 ちなみに、途中雨が降ってきて、急いで外の物をプレハブにしまったのですが、そのまま凄い雷雨になり、周辺では落雷で停電までしていたようです。

 いらっしゃる方々は、自宅避難者が多いそうです。2階だけ残って自宅に戻って、救援物資を受けられない方々や、大丈夫だったおうちに数家族で共同生活をしてる方々が中心だそうです。民生委員の方々が運営してらっしゃるだけに、状況は大体は把握されてるそうです。

 しかし、この荒浜地区は早々に野次馬が殺到し、自衛隊等の作業に支障をきたしたため、立ち入りの規制が早かったのです。べんちゃんのように、当該地域の住人ですら立ち入りにも許可証が必要で、しかも2週間に1回許可書を更新しなければならないそうです。そして、つまり、報道も規制されたため、支援も少なくなってしまってるのが現状だそうです。

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午後

荒浜地区の方々が集まる避難所(小学校)へ移動。
子供たちを集め、まあさパフォーマンス後、お菓子や文房具を配りました。


雨がふったりやんだりなので、ここでやることに。。。


後ろから、演る人見る人の両方に気を配りながら、笑顔で見守るのが「べんちゃん」こと高橋勉さん。

 雨が降ったりやんだりだったので、体育館と校舎を結ぶ「渡り廊下」でパフォーマンスをしました。
終わったら、小袋に仕分けしたおかしや、文房具類を皆様に手渡し、コミュニケーションをとることができました。
 お菓子は全部配り終え、あまった文具等は、べんちゃんに預かって頂き、再び高音寺に運んでくださることになりました。

 その後、前回今回ともachikoちゃん用に別枠で集められた荷物が届けられた場所、荒浜地区のアセロラ農家(自宅避難)に荷物をお届けし、帰路につきました。浸水2mの区域で、作物や農機具、加工機器等はもちろん全滅、おうちの復興作業を続けてらっしゃいます。

報告は以上です。
 第1回から2週間、震災発生から2ヶ月、多少復興は進んでる地域もあるとはいえ、まだまだ信じられない世界が広がってます。0からのスタートではなく、0に戻す作業すら始まってないところも多いです。僕らの活動もまだまだ、意味を感じられる状況と判断しましたので、続けたいと思っております。 今後も、無理ない程度に、ご参加くださいますようお願いいたします。
 尚、今回は、交通費という名目で頂いたカンパにも若干ですが、余りが出ましたので、次回へ繰り越しをさせて頂こうかと思っております。
 次回、日程はまだ未定ですが、明日、次回便についてのMtg.をして参りますので、近々また、告知させて頂きます。
 長文にお付き合い頂き、本当に本当にありがとうございました。

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 避難所の子供たちは、とても元気で、まあさもたくさんいじられてました。子供の方が順応性の高いからなのか、友達と四六時中一緒にいるのが楽しそうな子供も見受けられました。しかし、大人にはとてもつらい空間です。今回、中には入ることはしませんでしたが、人の熱気と、湿気、におい等、空気の悪さ… …言葉ではうまく表現できませんので、これ以上はやめておきますが、伝染性のある病気が流行りやすいのは、入った瞬間わかります。 たくさんの人が一つの空間に、数ヶ月なんて、大変なことです。 しかし、荒浜地区を見る限りではまだまだです。徐々に仮設住宅もできてますが、全ての避難所が解散するのはいつになることでしょうか。。。

 そして、自宅避難の方々です。なぜ、避難所にいないのか…という疑問に絡む問題の一つですが、 家屋の損壊具合です。全壊、半壊、全半壊や、一部損壊…。それぞれの定義がもちろんありますが、この損害における、賠償やら保険やら補助やら、全てにおいて保障されるものではないので、とても不安が残るのです。仮設住宅にはもちろん全壊の方からです。その上、保障の状況もわからなければ、半壊や一部損壊の方々は、自宅に戻るのです。そして、動ける人は一生懸命、自らの手で片付けやリフォーム、床や壁まではがしてまでやってらっしゃいます。
 つまり、息苦しい、仮設住宅には入れるかもわからない、保障なんかあてにできない、となれば時間がおしい… こんなことも大きな問題となってるようですね。。。ボランティアさんも不足してるようです。 そして、私の心はまた、被災地へ。。。

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 べんちゃん、実は、、、早朝、お義母さまがご危篤で、今日は参加できないかも…というお話だったのですが、少し遅れていらしたのです。 お義母さま、亡くなられたそうで、もう何もしてあげられないから来た…と。。。

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「第1回支援物資お届け」(タイトル仮)のご報告

 この度は、ご参加に際してこちらの指定方法での配送や、直接お持ち頂いたり、皆様のお気持ちとご協力、本当にありがとうございました。皆様の被災地の方々への想いを伝えて参りましたことをここにご報告致します。

 実際に被災地を五感で感じてしまうと、やはり自分の精神状態も通常の状態ではなくなった感覚があり、感情の起伏が激しくなることにより、不適切な表現等含まれてしまうかもしれません。

 具体的に申しますと、不自然に明るく書こうとしていたり、皆様の気持ちを暗くしてしまうような表現があるかも知れず、しかし、事実だけを述べただけでもつらい表現になることが必至であり、気持ちや想いを強制するものでも、批判するものでもないもので、「皆様には感謝の気持ちでいっぱい」であることをご理解ください。

 文中↓↓↓↓↓↓↓↓から↑↑↑↑↑↑↑↑の部分に、主観による、感じたことやエピソードを含めております。
 ジャーナリストでもない私のつたない文章であり、中にはショッキングな内容が含まれてる可能性もあります。報告のみ知りたい方や、精神的に今はつらい方は、この矢印に囲まれた部分をとばしてお読みいただけます様よろしくお願いします。
 また、書ききれないエピソードはたくさんございます。後日改めて、報告させていただきます。

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4/17 mtg.により、詳細決定
4/18 末松一人、ぺんぺん画、赤間慎により物資募集開始
4/19 翌日より、続々と物資が到着。その仕分け箱詰め等、そのほとんどをぺんぺん画が。。。
~21 義援金でご協力頂いた分でのコストコや、ドンキホーテ等への買出し
※ひっきりなしになるチャイムに、仮眠がとれないほどの物資の到着具合だったようです。
本当にありがたいことです。


まだまだ集まり続けます。。。

4/22
・現地ご持参の荷物が続々到着。1階ロビーにて仕分け。
・積み込み…近隣の迷惑も考え、お手伝い頂く方も限定させて頂きました。
全部は無理かと思うほどの量でしたが、全て載せました。


この右側にもまだまだたくさん物資!物資…物資…


リヤ側だけ、超シャコタンです。


ここに一人宮城まで埋まることになります。


achikoちゃんの作ってくれたおにぎりやから揚げやコロッケを手に。。。

4/23 雨、夜には強雨

・未明に出発 末松一人、achiko、赤間慎
・朝 泉区将監到着 ここで亘理行きの荷物とachikoちゃんが降りました。
 亘理行きの荷物は、この後、achikoちゃんとお母様により、亘理の避難所や点在する自宅避難の方々へ届けられました。

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 向かいの公園の野球場には、周辺から集められた瓦礫や、壊れた家具、家電製品などがとてもたくさん集積されてました。持ち込む時間が指定されているにも関わらず、中には時間外に持ち込み、中に入れず、周辺道路等に不法投棄される方も多かったと伺いました。
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・石巻市元倉 末松さんのお知り合いの熊倉一徳さんのお宅へ到着。
浸水:1.5~2m、ライフライン:水道○ 電気○ ガス×

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 東北道福島入った辺りから、路面は補正された箇所が多くなります。段差等が増え、場所によって80km、50kmの規制が敷かれてます。スピード出してると車傷めることになるでしょうね。
 宮城県内一般道は、所々で、路面は波打ったり、陥没していたりです。東部道路、三陸道は基本ずっと渋滞のようで、泉区将監→三陸道→石巻市元倉で、2時間ちょいかかりました。

 石巻河南より石巻バイパスを東へ。浸水のあとが周囲の建物についてたりもするのですが、おおよそ片付いてるように見えます。たまに手付かずの家の中がぐちゃぐちゃになってるのを見て、浸水したことがやっと確認できるのでした。雨だったので、砂塵もそんなに舞っていなかったのです。

 ところが… 

 目的地手前でローソン(その日営業を再開)に寄ったのですが、店を出て一本曲がったら…目を疑う世界が目の前に広がったのです。路面は格段に悪くなり、歩道ありの片側一車線のその道は、すれ違いが困難なほどに両脇に、瓦礫、幾袋もの土嚢、家財道具等が積み重ねられ、それが、背の高さ異常にもなってました。
 雪国で、雪かきをした道路、両脇に背丈以上もの雪が寄せられ…そんな景色の雪を、瓦礫に置き換えたような景色です。
 道路には当たり前のように深さすらわからない水溜りの数々、復旧作業が行われて間を縫うようにして、息が詰まるような思いで到着。心の準備をしてたとはいえ理解し難い光景でした。1ヶ月半近くも経ってまだこんなだとは…。

 最初に耳にした言葉は関西弁でした。家の前で「大阪~」と書かれたゴミ収集車が何台も入れ替わりで作業していて車庫に入れなかったのです。数十人もが雨の中で作業してましたが、震災を経験してるからか、とても効率よくおそろしい早さで片付いていってました。
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・末松さんと熊倉さんの再会を見守り、熊倉さんや奥様にお話を伺いました。
※被災者の方々に直接伺ったエピソード等、たくさんありますので、また別にお伝えさせて頂きます。

・熊倉さん一家のご協力でお宅に、物資を下ろし内容ごとに整理、陳列。被災者の方々に来て頂くことになりました。入れ替わり立ち代わり、近隣の被災者の方々が訪れ、ゆっくり選んで頂き、それは、夕暮れまで続きました。

方法:ダンボールのままふたを全開を、見やすいようおおよその内容ごと3列に並べ、減りの早い物から、都度車に残された物資を補給。持ち帰っても使えるよう、ゴミ袋を配布し、物資入れに。。。

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 熊倉さんは、東北プランニング(株)の代表で、地元青年会議所でも多大に貢献された方で、とても顔が広く一緒に歩いてますと、すぐに誰かに声をかけられ、ご挨拶してる姿を何度もみました。よほどの地域貢献度の高さなのでしょうね。主観では、背は高く(180cm)体格がっちり、声も低く、安岡力也さんのような迫力を持った、「石巻のドン」的な方だと。。。
 皆様、物色されてる最中、ひっきりなしにお電話、奥様はお昼には、カップラーメンやレトルト食品やコーヒーを振舞っておられました。現状は、ガスが来てなくて、交通手段は皆失い、近隣でお店はやってなくて買い物にも行けず、物資支援もほぼなし。バスで数十分乗るとやっと最近では買い物ができるようなありさま。
 ですから、この状況下でのカップラーメンやレトルト食品は最高のおもてなしです。
この方々、あまり、ご自身が被災者であるとは思っていらっしゃらないような。。。
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・15時頃、末松さんのもう一つの目的、高台から旧北上川の撮影をするため、毛利壯幸さんらに日和山公園を案内して頂きました。

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 津波10~15mと言われてる地域が一望できる公園です。
持っていた傘をさすのも忘れただただ立ち尽くすばかりです。
やっと出た言葉は…「だめだ…」
 この時、物資を見て喜ぶお顔を拝見した直後だというのに、何をやっても駄目だ…、自分は意味のないことをしている…と、全てを投げ出し、地球も全てもなくなってしまえばいいって…、そしたら、全てがなかったことにできる…って、思いました。
 すみません。今現在、感情的に書いてるわけではないです。皆様になにかを訴えたいわけでもありません。ただ当時、感じた事実をありのままに書くとこうなるだけです。しかしやはり言葉にするには難しいようです。
 しかし、あまりいい結果を生むわけではないと思うので、やはりこういう部分の表現は、ジャーナリストにおまかせして、自分は控えさせて頂きますね。もちろん、個人的にお話する機会があればお話させて頂きます。現地の方々は、「ぜひしっかり見て、ご自分の言葉で皆様に伝えてください」と、その被害の多い場所をもご案内してくださいましたが、個人的にお話をする…という形をとらせてください。お気軽に声をかけてみてください。
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・町の主な場所を案内して頂きました。
日本製紙の横を通り、門脇町を通り、南浜町、明神町、湊町、中央、住吉町を経由し、元倉へ戻る。

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道中、毛利さんに各地の状況を説明していただきました。
門脇町は、火災もあり一晩中空が真っ赤だったいう地域。
南浜町は、壊滅状態。解体用重機が2~3台稼動してました。
そのほか、2階だけ残ったお家に避難所から戻られて、無理やり生活してる方々の多い地域のお話を伺いました。
 言葉では表現できないひどい状況であることだけのご報告に控えさせていただきます。
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4/24 晴れ

・熊倉さんのお宅に、朝から被災者の方々がいらして物資をお持ち帰り頂きました。
・熊倉さんの計らいで、お知り合いの小、中学校や高校等、避難所に携わるたくさんのお知り合いに、物資持込が可能かをご連絡をしてくださいましたが、やはりどこも受け入れてはくれませんでした。

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 やはり、数が揃わないと無理だそうです。
「以前、数が揃わないから配布できない物資を、緊急を要するからと配布し、全員に行き渡らなかったが為にブーイングを受けた」といったエピソードも伺えました。こうした場所でボランティアをしてる方も被災者なわけで、やるせない想いばかりです。
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・昨日、暴風雨のためうまく撮れていなかったため、もう一度日和山公園へ。

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 ボランティア経験者の誰もが言うとおり、ものすごい砂塵で
した。常に砂が舞っていて、なんとなく世界は黄色いです。ただ…、現地の方でマスクをしている方は少ないです。洗濯物も外に干され、魚が腐敗したにおいが漂ってます。石巻は、魚の加工工場が多く、冷凍してストックしている魚がみんな街に流され、異臭を放っているそうです。

 日和山公園は、桜が満開で、たくさんの方々がいらしてました。お店や出店も数点出ていて、それは、勇気を与えてくれるものでした。さらに、ボランティアの団体が、ビールやジュースの無料配布もしていました。
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・熊倉さんの計らいで、急遽ラジオ石巻へ向かうことになりました。
主に、song for hopeの立ち上げ、趣旨、活動内容等、現地のリスナーにお届けすることができました。

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ラジオ局の方との会話が聞こえました。
「被害大丈夫だった?」「あーうちは人も建物も大丈夫だったよ。」「浸水は?」「ぎりぎり床下だから被害なし」「うちも被害なし。よかったよかった」
…って、こんな会話ですが、車1台と、車2台を失ってる方の会話です。一ヶ月以上に及んで未だ終わらない家の片付けとかライフラインすら十分じゃないことや車1~2台は被害に数えないのか。。。
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・石巻中学校の避難所訪問。末松さんが人を探していたのですが、結局お話することはできませんでした。

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 この避難所は約200人。プライバシーは一切なく、空気もよくなく、伝染性のある病気など蔓延する理由もよくわかりました。天気が良かったので、校庭にたくさん停められた車の中で過ごす人も何人か見られました。
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・だぶついた物産品等があったら買っていきたいという話を聞いてくださり、水産加工品で有名な魚町地区を案内して頂きましたが、ほとんどの場所に人はいなく、壊滅的ダメージだったので成果は得られませんでした。

・昨日、案内して頂いた、2階だけ残ったお家に避難所から戻られてる方の多い地域にて、物資をゲリラ的に配布。ボランティアで移動お風呂サービスをしている箇所に、数人いらしたので、ここにしばらく滞在し配布。
 その他、車で走りながら、人を見つけると配布…という形をとり、その日積んでいた分の物資は全て配ることができました。
 尚、具体的に配布した地域に関して詳細を知りたい方は、こちら(赤間)に直接ご連絡をお願いいたします。

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 津波は、4mの地区で、半壊、全壊も多いが、建物が残ってると避難所を出て戻って2階生活してる方々もいらっしゃいます。ライフラインは未だに全てダメ。避難所と違って、救援物資等が得られにくい地域です。みなさん、車等失ってらっしゃる方が多いので、歩いて行こうにも、お年寄りには遠い距離になり、遠い街への買い物はおろか、近くにあるべき自衛隊の救援物資の配布所ですら行くのが困難な様です。
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・熊倉さん宅に戻る。
 残りの物資は、配布を続けてくださることになりました。そして5/7に個人支援物資が集められる機会があり、最終的にそれでも余った物に関しては、そちらに回してくださるという、ことを引き受けてくださいました。

報告は、以上です。
 実際感じてきて、たくさんの情報を得た結果、この活動は続けて行く意味があると判断しました。あまりに状況が様々なので、時と場所により少しずつ形は変えていきますが、今後ともご協力をお願いいたします。そして、皆様の想いが届くことを祈りながら、活動を続けさせて頂きます。
本当に、ありがとうございました。

次回は、5/7夜中発で、亘理行きです。
詳細はまた。。。

あかましん


左から、末松さん、熊倉さん、毛利さん、赤間

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 どうみても被災地ど真ん中の熊倉さん、ご家族の方々、毛利さんに多大なるお世話になりました。
そして、みなさん、何度説明しても被災者意識が薄い…(!?)というか…。「うちより大変な地域があるから…」と。。。もちろんそれも事実なのでしょう。なにせ我慢強い東北の方々だし。

 車一台、あんなことになっていたら、本当は大事件です。高速道路だったら見物渋滞ができるほどです。それが、あれだけの広い範囲で当たり前の物のように見せ付けられ、それがさらに茨城県から青森県まで続いてると思うと、いよいよ理解ができなくなります。
 熊倉さんからは、生き残った友人はみんなぎりぎりだったと伺いました。
一人一人のあの日からのストーリーは、全国ニュースで何度も放送されるレベルの大事件と被害状況なんですね。それが…、被災地のどこの方たちも、物資はちょっとずつしか取ってくれないのです。
 インスタントコーヒーの瓶が10個あっても取ってはくれません。スティックコーヒーの箱を開けて中味を家族の分だけ持っていきます。「わあ、お味噌だ」…って、手に取るものの、普通のサイズの味噌は戻されてしまいます。そして、だしの素の箱を開け、小分けされた中味ちょっとだけ持っていくのです。
 たくさんの缶詰の陳列をしていると、楽しみに見ているのとは裏腹にとってくれないので、「たくさんあるのでどうぞ持ってってください」と声をかけると、
「あ、その秋刀魚のやつは一つ頂いてますので…」って…、やっぱり思いやりで。。。
「ここが、最後での場所で、僕らもう東京帰りますから…」っていうことを繰り返し、やっと、みなさんに少しでも多くとっていただき、車載していた物に関しては、やっとはけたのでした。

 ふと思ったことは、「一個10円」とかで売った方が、実はみんな少し遠慮がなくなるのかなぁ…とかね。。。どうなんだろう。。。
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宮城への想い -私事の独り事です-

こちらは、私の独り事で、かなり長文になります。
支援物資提供してくださった方々へのご報告は、次の「第1回支援物資お届けのご報告」にてお伝えさせていただきます。

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  私の父親の実家が宮城県の大崎市なので、宮城で頻繁に起こる大地震の震度が高いと、いてもたってもいられなくなります。 友達や友達の実家も多く、子供の頃からよく行く場所でもありました。
 今では新幹線ですぐですが、懐かしのL特急「ひばり」や「はつかり」そして「やまびこ」等、上野~仙台間だけでも4時間かかっていたので、玉造郡の岩出山(現在は大崎市内)には、当時の横浜市の家から6~7時間かけての長い列車の旅なのでした。
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 そんなわけで、3/11の地震以来、自分の仕事が一段落したら何がなんでも宮城の地へ向かいたいという想いを、いかに効率よくスマートに迷惑をかけずに実現できるかを考えてました。。。
 とはいっても、自分個人でできることなんて本当に些細なことので、知り合いの所を回ろうかと。

4月の2週目の週末~翌週あたまに予定を定め、
・東京の親戚中回って届け物を集め、父の実家(本家)に行く
・友達を回ってお届け物集め…その数人の友人の所やその実家を廻る
・実家が宮城の人を乗せてく
・上記の方たちのお知り合いが避難所等にいれば、そこに公的に物資を持っていく
・酒蔵や、物産等、向こうで生産してるけど流通に乗せられず、在庫のだぶついてる物を少しでも買ってくる。
・観光によって成り立つ街の観光(松島等)

そして、自ら顔を見せ、関東の人たちの想いを自分の言葉で伝えることがなにより元気をあげられる!!

 海沿いでなければ、徐々に復興も進み、このくらい理由が揃えば、気ぃ使いぃの宮城の人たちに「ついでだから…」って軽く言えるだろうな…なんて思っていたら…

4月7日23:30頃… またも震度6強の大地震です。

 どうやら東京の人には記憶も薄いみたいですが、3/11よりも揺れたように感じるという声を方々から聞くほどの揺れの強さだったそうです。 夜も深い時間の地震でしたから相当怖かったでしょうし、せっかく片付いた部屋たちは全て片付け前の状態に戻り、復旧してきたライフラインもまた失われたりと、疲労困憊の精神状態に追い討ちをかける出来事だったのでしょう。
 この地震により、少しだけできた心の余裕すらも奪われたようだ…と、上記の「ついでだから…」という用事の数々が、どんどん失われ始めたのです。 宮城の皆様、口々に「私らなんかよりも、もっと大変なとこあっがら…」って。。。
 まあ僕には、「部屋さ汚れてしまって心配かけるし、おもてなしもできねぐなったし、あんだもあぶねっから…」って声が聞こえてしまいますが。。。

 せっかく行くならなるべく多くの用事を重ねることによって、車をなるべくいっぱいにしたかったので、
正直、計画をし直さなければという気持ちでいたところ、ラクライも参加している「song for hope」を立ち上げ、仕事仲間でもあるギタリスト末松一人さんの、「物資運んだりもしていきたい」的なつぶやきを見つけたのです。
 ここで少しでも力になれるかも…なんて思い、夜な夜な話し合いが続き、実現することになりました。公にすることで公に荷物を募集できるし、車も物資でいっぱいにできますしね。
 そして、情報もたくさん入ってくるようになるわけです。宮城出身の友人achikoちゃんのご実家の知り合い経由で亘理の情報も入り、MONKEYDASHぺんぺん画の圧倒的な情報収集、発信能力により、今回の形になったわけです。

 今回参加してくださった皆様、そしてこれから参加してくださる皆様、応援してくださる皆様、心からお礼を申し上げます。
 ありがとう、ありがとう、ありがとう… です。

 私はお届けするだけなので、私がお礼を言うのもおかしなことかもしれないですが、こちらの指定方法での配送や、直接お持ち頂いたり、皆様の気持ちとご協力に感謝の気持ちでいっぱいでございます。

 尚、先ほど「公」という言葉は使いましたが、実際には公ではありません。
私事である「私」に対する、届ける人が知り合いではなくてもという意味での「公」です。

 この活動は、「即効性」を持たせることを重点におき、役所等、自治体を通した公的な活動ではありません。避難所や平等を考えられた大きな動きでは未だ届かないが、苦しい生活を強いられてる、待ちきれない方たちへの、ある意味不平等な、広大過ぎる被災地の中の小さな小さな私的活動であることをご了承ください。

 1ヶ月以上も経って、未だ愕然とするような生活をされてる方が、信じられないほど多いです。こんな小さな活動でも、役に立ってる実感は得られました。平等は、公的な方たちにまかせ、僕らは、不平等であろうとも活動を続けるつもりです。

 今回の活動、得られた情報を含め、次のコラムにて詳細をご報告するつもりです。
ご賛同いただけましたら、今後とともご協力よろしくお願いいたします。

あかましん