月別アーカイブ: 2011年5月

「第2回支援物資お届け」(タイトル仮)のご報告

  第1回に引き続き、5月3日に第1.5回、個人的な友人のいわき市、5月8日に第2回として亘理に行って参りました。
 そして、第2回でも、スムーズな支援物資のご配送手配や、お持ちいただいたりと、ご協力本当にありがとうございました。皆様の想いの形を、全てお届けしてきたことをご報告いたします。

 初回からそうですが、激しいギャップの中、自分の現実がどちらにあるのかわからなくなります。被災地にいると、目に入る凄まじい世界は、現実に目の中に飛び込んでくるのですが、おそらく脳は全てが嘘や夢のように処理をしているのでしょう。こちらに帰ってくると、当たり前過ぎる自分の日常が信じられなくなります。自分の真実は被災地にある…というように感じるのです。僕の周りの、ボランティアに行ってる皆さんが、ずっと、行きっぱなしになってしまう人が多いのは、こんな理由も含んでるのだな…と、感じたりします。もちろん主観ですが。。。

 というわけで、やっぱりうまく伝えることができないので、前回と同じ方法で報告させて頂くことにします。文中↓↓↓↓↓↓↓↓から↑↑↑↑↑↑↑↑の部分に、主観による、感じたことやエピソードを含めております。
 ジャーナリストでもない私のつたない文章であり、中にはショッキングな内容が含まれてる可能性もあります。報告のみ知りたい方や、精神的に今はつらい方は、この矢印に囲まれた部分をとばしてお読みいただけます様よろしくお願いします。
 文中にいろいろな表現が出ることもあるでしょうが、事実を羅列するだけでつらい表現になり、思いを強制するとか、批判するものではありません。「皆様の愛への尊敬と感謝の気持ちでいっぱい」であるのが真実です。
 そして、ここで書ききれないこともたくさんたくさんあり、お伝えしたいとも思っておりますので、お気軽にお声をかけてください。

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第1.5回いわき市
5/3 いわき市の久ノ浜で、家を流された友人に、ごく親しい友人たちのみで私的に物資を届けて参りました。 3/11の夜から、避難区域の拡大に翻弄され、一晩ごとに避難所を移動した方で、だんな様は自衛官。たくさんのお話を聞き、建物損壊具合による問題点や、背景等の一部を理解することができました。

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第2回亘理町

目的 :
1. 第1回で亘理に向かったachikoちゃんのお知り合いである民生委員さんより頂いた情報に基づき、支援物資の収集及びお届け。
2. 上記の民生委員の方からの以来を受けたパントマイミストまあさのパフォーマンス。
3. 第1回から宮城へ滞在していたachikoちゃんを迎えに行く。
4. その他、未定ですが、他の地域も行くかもしれない。

4/29 物資募集開始
~5/7 またまた、たくさんの物資が届けられました。義援金としてお預かりした分での物資の買い物も…。

19時までにお届けしていただいた物資たちを、最終仕分けし(赤間は、また仕分けには参加できませんでしたが、、、)、赤間が到着で、積み込み開始です。


まとめられた荷物を見て、今回はゆとりがあるな…と、思っていたらまた、ギリギリいっぱい。


そして、またここに、一人埋まります。

 こんなにも物資がぎゅうぎゅうになると、なんとも言えない気持ちになります。
なにせ、皆様の愛のかたまりですから。。。
 感動と同時に、もの凄い責任感が生まれます。

5/8 晴れ お昼近くに激しい雷雨

未明に出発 まあさ 、ぺんぺん画、赤間慎

8時半過ぎに、achikoちゃんとお母様と弟さんと合流し、物資配布会場になる高音寺へ。

 今回は、achikoちゃん一家とお友達の民生委員、高橋勉さん「べんちゃん」に、一日お世話になりました。このお寺では、定期的に物資配布会を開催しているのですが、なにか、公というよりは、物資の至急されない、または、配布所までとりに行けない方たちのために、民生委員の方々が自主活動のように立ち上がって行ってるのだそうです。役所の方々と、現場(前述の民生委員の方々)での現状認識のギャップが激しく、半ばいつも戦ってらっしゃるようです。
 お寺の駐車場が会場になってますが、民生委員である住職により、駐車場(配布会場)と、屋根付きのガレージ(支援物資置き場)が提供されてるのです。

9:00 支援物資を受け渡し。
次に行く、避難所(小学校)で配布する為にわけたおかしと文具、を残してお渡ししました。

 この間に、まあさがパフォーマンスしました。

10:00 支援物資の配布会スタート

お昼頃、雷雨により、早めの終了を余儀なくされました。


このガレージに、物資を卸し、民生委員の方々で、再仕分けされます。


このテントの右側に新品衣服や書籍、文具用プレハブがあり、その右側(屋外)には、中古の衣服コーナーが広がります。


とーほぐべん、大好きです。


みなさん、最初はかたかったものの、徐々にまあさのパフォーマンスでリラックスしてたご様子です。


支援物資を寄付した人に配ってらっしゃいます。

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 上記のはがき、「何人からの寄付ですか?」と聞かれ、「ものすごくたくさんの人からです」と答え、とりあえず、数枚だけ頂、写真でお伝えする判断をしました。現物はMONKEYDASHにございます。

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 「べんちゃん」「べん
ちゃん」…って、ひっきりなしにいろんな人からご挨拶され、屈託のない笑顔で相手を気遣ってる。。。 なんか、誰もが会ったことがあると感じるような、熱くて厚くて人のいいおっちゃんです。白髪にキャップをかぶり、着ているトレーナーと、ズボンをつまみながら、「これも、支援していただいたやつだよ」って、笑顔で話してくれる。。。
 そんなべんちゃん、もちろん被災者です。この辺りは、仙台東部道路から続く常磐道盛り土の上を走っており、東部道路同様に第二の堤防のようになって、この道より東側が津波の被害が大きい地域、荒浜地区です。この地域では、電気、ガスがまだの所も多いようで、1階はたいてい使い物にならなくなってるそうです。。。べんちゃんも、この地域の方です。

 ライフラインの復旧の情報(各市町村の役場等の発表)と、現実に格差がある理由のひとつがわかりました。石巻の状況も総じてわかったことですが、公共の地域のライフラインが復旧しても、そこから各家庭へのラインの復旧工事の人手と機器が間に合ってないのです。例えば、ガスですが、ガスコンロが復旧してから、お風呂に入れるまで1週間近くの差があったようです。浸水すれば、お風呂の給湯器も壊れます。その給湯器の交換工事が全然間に合ってないのです。電気も同様に、すぐそばまで電気が来てても、家までが繋がってなければ電気は来ないわけです。そして、役所では、ほぼ復旧したと、発表してしまうわけです。 その情報の誤差が数週間~1ヶ月に及んでる所も少なくありません。まだまだなのですね。。。

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 ここでは、民生委員の方々が、しっかり仕切っていて、20名くらいの方々が15分くらいづつ、各種類一人一つまでで、一方通行、後戻りはなし…と、いうルールの下、みなさん物資を選んでました。たくさんの民生委員の方が、しっかり物資を見ていて、物が少なくなると、まめに倉庫となるガレージからどんどん補充してました。ガレージの物資も全て管理、把握してるので、その都度何がどのくらい必要かわかるようなシステムです。7月くらいまでは続けたいとおっしゃってました。
 ちなみに、途中雨が降ってきて、急いで外の物をプレハブにしまったのですが、そのまま凄い雷雨になり、周辺では落雷で停電までしていたようです。

 いらっしゃる方々は、自宅避難者が多いそうです。2階だけ残って自宅に戻って、救援物資を受けられない方々や、大丈夫だったおうちに数家族で共同生活をしてる方々が中心だそうです。民生委員の方々が運営してらっしゃるだけに、状況は大体は把握されてるそうです。

 しかし、この荒浜地区は早々に野次馬が殺到し、自衛隊等の作業に支障をきたしたため、立ち入りの規制が早かったのです。べんちゃんのように、当該地域の住人ですら立ち入りにも許可証が必要で、しかも2週間に1回許可書を更新しなければならないそうです。そして、つまり、報道も規制されたため、支援も少なくなってしまってるのが現状だそうです。

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午後

荒浜地区の方々が集まる避難所(小学校)へ移動。
子供たちを集め、まあさパフォーマンス後、お菓子や文房具を配りました。


雨がふったりやんだりなので、ここでやることに。。。


後ろから、演る人見る人の両方に気を配りながら、笑顔で見守るのが「べんちゃん」こと高橋勉さん。

 雨が降ったりやんだりだったので、体育館と校舎を結ぶ「渡り廊下」でパフォーマンスをしました。
終わったら、小袋に仕分けしたおかしや、文房具類を皆様に手渡し、コミュニケーションをとることができました。
 お菓子は全部配り終え、あまった文具等は、べんちゃんに預かって頂き、再び高音寺に運んでくださることになりました。

 その後、前回今回ともachikoちゃん用に別枠で集められた荷物が届けられた場所、荒浜地区のアセロラ農家(自宅避難)に荷物をお届けし、帰路につきました。浸水2mの区域で、作物や農機具、加工機器等はもちろん全滅、おうちの復興作業を続けてらっしゃいます。

報告は以上です。
 第1回から2週間、震災発生から2ヶ月、多少復興は進んでる地域もあるとはいえ、まだまだ信じられない世界が広がってます。0からのスタートではなく、0に戻す作業すら始まってないところも多いです。僕らの活動もまだまだ、意味を感じられる状況と判断しましたので、続けたいと思っております。 今後も、無理ない程度に、ご参加くださいますようお願いいたします。
 尚、今回は、交通費という名目で頂いたカンパにも若干ですが、余りが出ましたので、次回へ繰り越しをさせて頂こうかと思っております。
 次回、日程はまだ未定ですが、明日、次回便についてのMtg.をして参りますので、近々また、告知させて頂きます。
 長文にお付き合い頂き、本当に本当にありがとうございました。

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 避難所の子供たちは、とても元気で、まあさもたくさんいじられてました。子供の方が順応性の高いからなのか、友達と四六時中一緒にいるのが楽しそうな子供も見受けられました。しかし、大人にはとてもつらい空間です。今回、中には入ることはしませんでしたが、人の熱気と、湿気、におい等、空気の悪さ… …言葉ではうまく表現できませんので、これ以上はやめておきますが、伝染性のある病気が流行りやすいのは、入った瞬間わかります。 たくさんの人が一つの空間に、数ヶ月なんて、大変なことです。 しかし、荒浜地区を見る限りではまだまだです。徐々に仮設住宅もできてますが、全ての避難所が解散するのはいつになることでしょうか。。。

 そして、自宅避難の方々です。なぜ、避難所にいないのか…という疑問に絡む問題の一つですが、 家屋の損壊具合です。全壊、半壊、全半壊や、一部損壊…。それぞれの定義がもちろんありますが、この損害における、賠償やら保険やら補助やら、全てにおいて保障されるものではないので、とても不安が残るのです。仮設住宅にはもちろん全壊の方からです。その上、保障の状況もわからなければ、半壊や一部損壊の方々は、自宅に戻るのです。そして、動ける人は一生懸命、自らの手で片付けやリフォーム、床や壁まではがしてまでやってらっしゃいます。
 つまり、息苦しい、仮設住宅には入れるかもわからない、保障なんかあてにできない、となれば時間がおしい… こんなことも大きな問題となってるようですね。。。ボランティアさんも不足してるようです。 そして、私の心はまた、被災地へ。。。

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 べんちゃん、実は、、、早朝、お義母さまがご危篤で、今日は参加できないかも…というお話だったのですが、少し遅れていらしたのです。 お義母さま、亡くなられたそうで、もう何もしてあげられないから来た…と。。。

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「第1回支援物資お届け」(タイトル仮)のご報告

 この度は、ご参加に際してこちらの指定方法での配送や、直接お持ち頂いたり、皆様のお気持ちとご協力、本当にありがとうございました。皆様の被災地の方々への想いを伝えて参りましたことをここにご報告致します。

 実際に被災地を五感で感じてしまうと、やはり自分の精神状態も通常の状態ではなくなった感覚があり、感情の起伏が激しくなることにより、不適切な表現等含まれてしまうかもしれません。

 具体的に申しますと、不自然に明るく書こうとしていたり、皆様の気持ちを暗くしてしまうような表現があるかも知れず、しかし、事実だけを述べただけでもつらい表現になることが必至であり、気持ちや想いを強制するものでも、批判するものでもないもので、「皆様には感謝の気持ちでいっぱい」であることをご理解ください。

 文中↓↓↓↓↓↓↓↓から↑↑↑↑↑↑↑↑の部分に、主観による、感じたことやエピソードを含めております。
 ジャーナリストでもない私のつたない文章であり、中にはショッキングな内容が含まれてる可能性もあります。報告のみ知りたい方や、精神的に今はつらい方は、この矢印に囲まれた部分をとばしてお読みいただけます様よろしくお願いします。
 また、書ききれないエピソードはたくさんございます。後日改めて、報告させていただきます。

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4/17 mtg.により、詳細決定
4/18 末松一人、ぺんぺん画、赤間慎により物資募集開始
4/19 翌日より、続々と物資が到着。その仕分け箱詰め等、そのほとんどをぺんぺん画が。。。
~21 義援金でご協力頂いた分でのコストコや、ドンキホーテ等への買出し
※ひっきりなしになるチャイムに、仮眠がとれないほどの物資の到着具合だったようです。
本当にありがたいことです。


まだまだ集まり続けます。。。

4/22
・現地ご持参の荷物が続々到着。1階ロビーにて仕分け。
・積み込み…近隣の迷惑も考え、お手伝い頂く方も限定させて頂きました。
全部は無理かと思うほどの量でしたが、全て載せました。


この右側にもまだまだたくさん物資!物資…物資…


リヤ側だけ、超シャコタンです。


ここに一人宮城まで埋まることになります。


achikoちゃんの作ってくれたおにぎりやから揚げやコロッケを手に。。。

4/23 雨、夜には強雨

・未明に出発 末松一人、achiko、赤間慎
・朝 泉区将監到着 ここで亘理行きの荷物とachikoちゃんが降りました。
 亘理行きの荷物は、この後、achikoちゃんとお母様により、亘理の避難所や点在する自宅避難の方々へ届けられました。

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 向かいの公園の野球場には、周辺から集められた瓦礫や、壊れた家具、家電製品などがとてもたくさん集積されてました。持ち込む時間が指定されているにも関わらず、中には時間外に持ち込み、中に入れず、周辺道路等に不法投棄される方も多かったと伺いました。
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・石巻市元倉 末松さんのお知り合いの熊倉一徳さんのお宅へ到着。
浸水:1.5~2m、ライフライン:水道○ 電気○ ガス×

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 東北道福島入った辺りから、路面は補正された箇所が多くなります。段差等が増え、場所によって80km、50kmの規制が敷かれてます。スピード出してると車傷めることになるでしょうね。
 宮城県内一般道は、所々で、路面は波打ったり、陥没していたりです。東部道路、三陸道は基本ずっと渋滞のようで、泉区将監→三陸道→石巻市元倉で、2時間ちょいかかりました。

 石巻河南より石巻バイパスを東へ。浸水のあとが周囲の建物についてたりもするのですが、おおよそ片付いてるように見えます。たまに手付かずの家の中がぐちゃぐちゃになってるのを見て、浸水したことがやっと確認できるのでした。雨だったので、砂塵もそんなに舞っていなかったのです。

 ところが… 

 目的地手前でローソン(その日営業を再開)に寄ったのですが、店を出て一本曲がったら…目を疑う世界が目の前に広がったのです。路面は格段に悪くなり、歩道ありの片側一車線のその道は、すれ違いが困難なほどに両脇に、瓦礫、幾袋もの土嚢、家財道具等が積み重ねられ、それが、背の高さ異常にもなってました。
 雪国で、雪かきをした道路、両脇に背丈以上もの雪が寄せられ…そんな景色の雪を、瓦礫に置き換えたような景色です。
 道路には当たり前のように深さすらわからない水溜りの数々、復旧作業が行われて間を縫うようにして、息が詰まるような思いで到着。心の準備をしてたとはいえ理解し難い光景でした。1ヶ月半近くも経ってまだこんなだとは…。

 最初に耳にした言葉は関西弁でした。家の前で「大阪~」と書かれたゴミ収集車が何台も入れ替わりで作業していて車庫に入れなかったのです。数十人もが雨の中で作業してましたが、震災を経験してるからか、とても効率よくおそろしい早さで片付いていってました。
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・末松さんと熊倉さんの再会を見守り、熊倉さんや奥様にお話を伺いました。
※被災者の方々に直接伺ったエピソード等、たくさんありますので、また別にお伝えさせて頂きます。

・熊倉さん一家のご協力でお宅に、物資を下ろし内容ごとに整理、陳列。被災者の方々に来て頂くことになりました。入れ替わり立ち代わり、近隣の被災者の方々が訪れ、ゆっくり選んで頂き、それは、夕暮れまで続きました。

方法:ダンボールのままふたを全開を、見やすいようおおよその内容ごと3列に並べ、減りの早い物から、都度車に残された物資を補給。持ち帰っても使えるよう、ゴミ袋を配布し、物資入れに。。。

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 熊倉さんは、東北プランニング(株)の代表で、地元青年会議所でも多大に貢献された方で、とても顔が広く一緒に歩いてますと、すぐに誰かに声をかけられ、ご挨拶してる姿を何度もみました。よほどの地域貢献度の高さなのでしょうね。主観では、背は高く(180cm)体格がっちり、声も低く、安岡力也さんのような迫力を持った、「石巻のドン」的な方だと。。。
 皆様、物色されてる最中、ひっきりなしにお電話、奥様はお昼には、カップラーメンやレトルト食品やコーヒーを振舞っておられました。現状は、ガスが来てなくて、交通手段は皆失い、近隣でお店はやってなくて買い物にも行けず、物資支援もほぼなし。バスで数十分乗るとやっと最近では買い物ができるようなありさま。
 ですから、この状況下でのカップラーメンやレトルト食品は最高のおもてなしです。
この方々、あまり、ご自身が被災者であるとは思っていらっしゃらないような。。。
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・15時頃、末松さんのもう一つの目的、高台から旧北上川の撮影をするため、毛利壯幸さんらに日和山公園を案内して頂きました。

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 津波10~15mと言われてる地域が一望できる公園です。
持っていた傘をさすのも忘れただただ立ち尽くすばかりです。
やっと出た言葉は…「だめだ…」
 この時、物資を見て喜ぶお顔を拝見した直後だというのに、何をやっても駄目だ…、自分は意味のないことをしている…と、全てを投げ出し、地球も全てもなくなってしまえばいいって…、そしたら、全てがなかったことにできる…って、思いました。
 すみません。今現在、感情的に書いてるわけではないです。皆様になにかを訴えたいわけでもありません。ただ当時、感じた事実をありのままに書くとこうなるだけです。しかしやはり言葉にするには難しいようです。
 しかし、あまりいい結果を生むわけではないと思うので、やはりこういう部分の表現は、ジャーナリストにおまかせして、自分は控えさせて頂きますね。もちろん、個人的にお話する機会があればお話させて頂きます。現地の方々は、「ぜひしっかり見て、ご自分の言葉で皆様に伝えてください」と、その被害の多い場所をもご案内してくださいましたが、個人的にお話をする…という形をとらせてください。お気軽に声をかけてみてください。
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・町の主な場所を案内して頂きました。
日本製紙の横を通り、門脇町を通り、南浜町、明神町、湊町、中央、住吉町を経由し、元倉へ戻る。

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道中、毛利さんに各地の状況を説明していただきました。
門脇町は、火災もあり一晩中空が真っ赤だったいう地域。
南浜町は、壊滅状態。解体用重機が2~3台稼動してました。
そのほか、2階だけ残ったお家に避難所から戻られて、無理やり生活してる方々の多い地域のお話を伺いました。
 言葉では表現できないひどい状況であることだけのご報告に控えさせていただきます。
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4/24 晴れ

・熊倉さんのお宅に、朝から被災者の方々がいらして物資をお持ち帰り頂きました。
・熊倉さんの計らいで、お知り合いの小、中学校や高校等、避難所に携わるたくさんのお知り合いに、物資持込が可能かをご連絡をしてくださいましたが、やはりどこも受け入れてはくれませんでした。

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 やはり、数が揃わないと無理だそうです。
「以前、数が揃わないから配布できない物資を、緊急を要するからと配布し、全員に行き渡らなかったが為にブーイングを受けた」といったエピソードも伺えました。こうした場所でボランティアをしてる方も被災者なわけで、やるせない想いばかりです。
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・昨日、暴風雨のためうまく撮れていなかったため、もう一度日和山公園へ。

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 ボランティア経験者の誰もが言うとおり、ものすごい砂塵で
した。常に砂が舞っていて、なんとなく世界は黄色いです。ただ…、現地の方でマスクをしている方は少ないです。洗濯物も外に干され、魚が腐敗したにおいが漂ってます。石巻は、魚の加工工場が多く、冷凍してストックしている魚がみんな街に流され、異臭を放っているそうです。

 日和山公園は、桜が満開で、たくさんの方々がいらしてました。お店や出店も数点出ていて、それは、勇気を与えてくれるものでした。さらに、ボランティアの団体が、ビールやジュースの無料配布もしていました。
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・熊倉さんの計らいで、急遽ラジオ石巻へ向かうことになりました。
主に、song for hopeの立ち上げ、趣旨、活動内容等、現地のリスナーにお届けすることができました。

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ラジオ局の方との会話が聞こえました。
「被害大丈夫だった?」「あーうちは人も建物も大丈夫だったよ。」「浸水は?」「ぎりぎり床下だから被害なし」「うちも被害なし。よかったよかった」
…って、こんな会話ですが、車1台と、車2台を失ってる方の会話です。一ヶ月以上に及んで未だ終わらない家の片付けとかライフラインすら十分じゃないことや車1~2台は被害に数えないのか。。。
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・石巻中学校の避難所訪問。末松さんが人を探していたのですが、結局お話することはできませんでした。

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 この避難所は約200人。プライバシーは一切なく、空気もよくなく、伝染性のある病気など蔓延する理由もよくわかりました。天気が良かったので、校庭にたくさん停められた車の中で過ごす人も何人か見られました。
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・だぶついた物産品等があったら買っていきたいという話を聞いてくださり、水産加工品で有名な魚町地区を案内して頂きましたが、ほとんどの場所に人はいなく、壊滅的ダメージだったので成果は得られませんでした。

・昨日、案内して頂いた、2階だけ残ったお家に避難所から戻られてる方の多い地域にて、物資をゲリラ的に配布。ボランティアで移動お風呂サービスをしている箇所に、数人いらしたので、ここにしばらく滞在し配布。
 その他、車で走りながら、人を見つけると配布…という形をとり、その日積んでいた分の物資は全て配ることができました。
 尚、具体的に配布した地域に関して詳細を知りたい方は、こちら(赤間)に直接ご連絡をお願いいたします。

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 津波は、4mの地区で、半壊、全壊も多いが、建物が残ってると避難所を出て戻って2階生活してる方々もいらっしゃいます。ライフラインは未だに全てダメ。避難所と違って、救援物資等が得られにくい地域です。みなさん、車等失ってらっしゃる方が多いので、歩いて行こうにも、お年寄りには遠い距離になり、遠い街への買い物はおろか、近くにあるべき自衛隊の救援物資の配布所ですら行くのが困難な様です。
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・熊倉さん宅に戻る。
 残りの物資は、配布を続けてくださることになりました。そして5/7に個人支援物資が集められる機会があり、最終的にそれでも余った物に関しては、そちらに回してくださるという、ことを引き受けてくださいました。

報告は、以上です。
 実際感じてきて、たくさんの情報を得た結果、この活動は続けて行く意味があると判断しました。あまりに状況が様々なので、時と場所により少しずつ形は変えていきますが、今後ともご協力をお願いいたします。そして、皆様の想いが届くことを祈りながら、活動を続けさせて頂きます。
本当に、ありがとうございました。

次回は、5/7夜中発で、亘理行きです。
詳細はまた。。。

あかましん


左から、末松さん、熊倉さん、毛利さん、赤間

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 どうみても被災地ど真ん中の熊倉さん、ご家族の方々、毛利さんに多大なるお世話になりました。
そして、みなさん、何度説明しても被災者意識が薄い…(!?)というか…。「うちより大変な地域があるから…」と。。。もちろんそれも事実なのでしょう。なにせ我慢強い東北の方々だし。

 車一台、あんなことになっていたら、本当は大事件です。高速道路だったら見物渋滞ができるほどです。それが、あれだけの広い範囲で当たり前の物のように見せ付けられ、それがさらに茨城県から青森県まで続いてると思うと、いよいよ理解ができなくなります。
 熊倉さんからは、生き残った友人はみんなぎりぎりだったと伺いました。
一人一人のあの日からのストーリーは、全国ニュースで何度も放送されるレベルの大事件と被害状況なんですね。それが…、被災地のどこの方たちも、物資はちょっとずつしか取ってくれないのです。
 インスタントコーヒーの瓶が10個あっても取ってはくれません。スティックコーヒーの箱を開けて中味を家族の分だけ持っていきます。「わあ、お味噌だ」…って、手に取るものの、普通のサイズの味噌は戻されてしまいます。そして、だしの素の箱を開け、小分けされた中味ちょっとだけ持っていくのです。
 たくさんの缶詰の陳列をしていると、楽しみに見ているのとは裏腹にとってくれないので、「たくさんあるのでどうぞ持ってってください」と声をかけると、
「あ、その秋刀魚のやつは一つ頂いてますので…」って…、やっぱり思いやりで。。。
「ここが、最後での場所で、僕らもう東京帰りますから…」っていうことを繰り返し、やっと、みなさんに少しでも多くとっていただき、車載していた物に関しては、やっとはけたのでした。

 ふと思ったことは、「一個10円」とかで売った方が、実はみんな少し遠慮がなくなるのかなぁ…とかね。。。どうなんだろう。。。
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